[編集] 人物評 高速バス [編集] 作家評 鴎外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。 夜行バス また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。 高速バス また、鴎外の論争癖を発端として論争が起きた事もある。坪内逍遥が「早稲田文学」にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草子』に載せたことから論争が始まった。このような形で鴎外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「戦闘的啓蒙」などと評される。 夜行バス 教師でもあった漱石のように弟子を取ったり[12]、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した鴎外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、文芸雑誌を主宰したり、自宅で観潮楼歌会を開いたりして色々な人々と交際した。そうした生活を送り[13]、日清・日露戦争に出征しながら、文学以外も含めて膨大な著作を残している。 ダイビング なお、近年の鴎外評のキーワードとしては、「女性論」(金子幸代)、「近代日本観」(池辺健次)、「文化の翻訳」(長島要一)などが挙げられる。 [編集] 軍医として 森 林太郎 1862年2月17日-1922年7月9日 北海道旅行 所属組織 大日本帝国陸軍 軍歴 1891 - 最終階級 陸軍軍医総監 指揮 陸軍省医務局長 賞罰 正四位・勲二等・功三級 除隊後 小説家 上記のとおり、鴎外は陸軍軍医であり、かつエリートとして昇進を続け軍医総監(軍医中将に相当)にまで上りつめた。 当時軍事衛生上の大きな問題であった脚気の原因について細菌による感染症との説を主張し、のちに海軍軍医総監になる高木兼寛(及びイギリス医学)と対立した。 沖縄旅行 自説に固執し、当時海軍で採用していた脚気対策の治療法として行われていた麦飯を禁止する通達を出し、さらに日露戦争でも兵士に麦飯を支給するのを拒んだ(自ら短編「妄想」で触れている)。但し当時の医学水準上(ビタミンの未発見)麦飯食と脚気改善の相関関係は科学的に立証されておらず、高木側は脚気の原因を蛋白質不足であるとしていた。 沖縄旅行 ともあれ結果的に陸軍は25万人の脚気患者を出し、3万名近い兵士を病死させる事態となった(同時期、海軍では脚気患者はわずか87名。高木により食品と脚気の相関関係が予測され、兵員に麦飯が支給されたためである)。実に2個師団に相当する兵士が脚気で命を落とし、また戦闘力低下のために戦死した兵も少なくなく「(鴎外は)ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」との批判も存在している。 北海道旅行 日露戦争終戦直前、業を煮やした陸軍大臣寺内正毅が鴎外の頭越しに麦飯の支給を決定、鴎外の面目は失われることとなった(寺内は日清戦争当時、具申した脚気対策に麦を送れと言う要望を鴎外により握り潰された経緯がある)。「予は陸軍内で孤立しつつあり 」とは、この頃の鴎外の述懐である。 沖縄 レンタカー 後に鈴木梅太郎が脚気の特効薬であるオリザニン(=ビタミンB1)を発見し、脚気との因果関係が証明されて治癒の報告が相次いだ。しかしその後も鴎外はかたくなに鈴木および学会の見解を批判した。また、赤痢菌を見つけた志賀潔などが脚気の栄養由来説を支持したこともあり、医学界でも脚気栄養起源説が受け入れられつつあった。この頃より鴎外の医学界での孤立はますます深まった。結局、鴎外は死ぬまで「脚気は細菌による感染症である」との自説を撤回しなかった。脚気栄養起源説の国家としての見識が示されたのは鴎外の死の2年後であった。 沖縄旅行 レンタカー 鴎外を擁護する立場からは、下士官・兵達の「入隊したからには白米を食べたい」という声があり、当時、麦飯は白米に比べ美味でないとされていた(麦の精白技術が現代ほど発達していなかったため)こと(脚気の歴史)を考慮すべきとの意見もある[14]。 麦飯食を推進した高木兼寛は都市衛生問題で「貧民散布論」を提案し、東京から貧民を追い出すべきとの主張をしていた。この主張はたしかに医学的・公衆衛生学的にはある程度評価できるものであったが、人道上の大きな問題があり、その立場から「貧民散布論」を徹底批判したのが鴎外ということもあって、両者の間には感情的にも深い対立関係が存在していた。 札幌 ビジネスホテル 加えて脚気細菌起源説は鴎外のドイツ留学実現に尽力した石黒忠悳の主張だった。このため当時ドイツ留学が国費留学以外に不可能だったという事情を鑑みる向きもある。なお、森鴎外も食事上の栄養価については考慮していて、日露戦争時は新たに兵に十分な肉と野菜を与えるように指示していたが、脚気は細菌に由来すると考えていたため、脚気を考慮していたものではなかった。日露戦争では補給が滞り現地調達も困難であったため、米のみで熱量(カロリー)を補給する事態となり、鴎外らによって麦飯の補給を止められた陸軍では、大量の脚気患者と死者を生み出す結果となった。 石垣 ホテル 『森鴎外全集』には医学に関する論文が多数収められている。また、なぜビールに利尿作用があるのか、といった研究も行っている。軍医であったためか「情勢を報告する・させる」目的から「情報」という言葉を考え出した人物とも言われる(異論もある)。 石垣島 宿泊 [編集] 年譜 年齢は数え年 1862年2月17日(文久2年1月19日・1歳) - 石見国津和野藩の津和野(現・島根県鹿足郡津和野町)に、津和野藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。 史跡・森鴎外生家1867年(慶応3年・6歳) - 11月、村田久兵衛から論語を学ぶ。 1868年(慶応4年・7歳) - 3月、米原綱善から孟子を学ぶ。 1869年(明治2年・8歳) - 藩校である養老館で、四書を一から読み直す。 1870年(明治3年・9歳) - 五経、オランダ語を学ぶ。 1871年(明治4年・10歳) - 藩医である室良悦から、本格的にオランダ語を学ぶ。 1872年(明治5年・11歳) - 6月、父とともに向島小梅村へ上京。その後、向島曳舟通りに移る。ドイツ語習得のため、本郷の進文学社に入る。 1873年(明治6年・12歳) - 6月、津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。 1874年(明治7年・13歳) - 1月、第一大学区医学校予科(現在の東京大学医学部)へ入学。後に東京医学校へ名称が変更される。 1877年(明治10年・16歳) - 東京医学校は東京開成学校と合併し、東京大学医学部へ。そして、鴎外は本科生に。 1880年(明治13年・19歳) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」へ移る。翌年3月、下宿先で火災に遭う。 1881年(明治14年・20歳) - 春、肋膜炎にかかる。7月、東京大学医学部を卒業。文部省広報に「東京府士族 森林太郎 十九年八ヶ月」とみえる。その後、明治政府に仕える。9月、「読売新聞」に寄稿した「河津金線君に質す」が採用される。これが鴎外の初めて公にされた文章であろう。12月、東京陸軍病院課僚を命じられて、陸軍軍医の副の任務に就く。 1882年(明治15年・21歳) - 2月、第一軍管区徴兵副医官になり、従七位の勲等を授かる。5月、陸軍軍医本部課僚になり、プロシア陸軍衛生制度の調査に駆り出される。 1884年(明治17年・23歳) - 6月、陸軍衛生制度、衛生学研究の目的で、ドイツ留学を命じられる。8月、横浜を出航。10月、ドイツに到着。ライプツィヒ大学でホフマン教授などから学ぶ。『ビイルの利尿作用に就いて』の研究を始める。 1885年(明治18年・24歳) - 1月、ハウフの童話を翻訳した『盗侠行』を発表。2月には、ドイツ語で『日本兵食論』『日本家屋論』を書く。5月、陸軍一等軍医へ昇進。10月、ドレスデンへ移り、軍医監ロートに就く。 1886年(明治19年・25歳) - 3月、ミュンヘンに移る。大学衛生部へ入学し、ペッテンコーフェルから衛生学を学ぶ。 1887年(明治20年・26歳) - 4月、ベルリンへ移る。5月、北里柴三郎とともに、コッホを訪ね、衛生試験所へ入る。 1888年(明治21年・27歳) - 3月、プロシア近衛歩兵第二連隊の軍隊任務に就く。9月、日本へ帰国。10月、陸軍大学校教官へ就任。12月、『非日本食論将失其根拠』を自費で出版。 1889年(明治22年・28歳) - 1月、『東京医事新誌』を主宰。その後、読売新聞で『医学の説より出でたる小説論』が発表され、本格的な文筆活動が始まる。3月、写真婚で、海軍中将赤松則良の長女登志子と婚約。5月、東京美術学校専修科美術解剖学講師に就任。8月、訳詩編『於母影』を「国民之友」に発表。10月、軍医学校陸軍二等軍医正(中佐相当官)教官心得になる。 1890年(明治23年・29歳) - 1月、『医事新論』を創刊。「舞姫」を「国民之友」に発表。8月、「うたかたの記」を「しからみ草紙」に発表。この作品は、石橋忍月との論争の火種になる。9月、長男於菟誕生。しかし、まもなく妻登志子と離婚。10月、本郷駒込千駄木町57に居住を移す。そこを、鴎外は「千朶山房」と呼ぶ。 1891年(明治24年・30歳) - 1月、『文づかひ』を刊行。8月、医学博士の学位を授与される。9月、「山房論文」を「しからみ草紙」に発表。「早稲田文学」で坪内逍遙と没理想論争を交わす。 1892年(明治25年・31歳) - 7月、小説翻訳集『美奈和集』を春陽堂から刊行。8月、医学、文学の論争からしばし離れて、休息を取るために「観潮楼」を建設。11月、アンデルセンの「即興詩人」を「しがらみ草紙」に連載。 1893年(明治26年・32歳) - 11月、陸軍一等軍医正(大佐相当官)になり、軍医学校長に。 1894年(明治27年・33歳) - 8月、日清戦争開戦。軍医部長として中国(盛京省花園口)へ上陸。10月、広島に執務後、11月大連へ上陸。 1895年(明治28年・34歳) - 5月、日清講和条約成立に伴い、日本(宇品)に帰国後、台湾へ赴任。8月、台湾総督府陸軍局軍医部長になる。9月、日本に帰国。 1896年(明治29年・35歳) - 1月、「めさまし草」を創刊。3月、幸田露伴、斎藤緑雨らとともに「三人冗語」を「めさまし草」に連載。4月、父静男死去。 1897年(明治30年・36歳) - 1月、中浜東一郎(中浜万次郎=ジョン万次郎の長男)、青山胤通らとともに「公衆医事会」を設立、「公衆医事」を創刊。 1898年(明治31年・37歳) - 10月、近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。 森鴎外旧居、小倉北区1899年(明治32年・38歳) - 6月、第十二師団軍医部長になり、九州・小倉に赴任。 1902年(明治35年・41歳) - 1月、大審院判事荒木博臣の長女志げと再婚。3月、東京に転勤。 1903年(明治36年・42歳) - 1月、長女茉莉誕生。 1904年(明治37年・43歳) - 2月、日露戦争開戦。4月、第2軍軍医部長として、宇品から、中国へ渡る。『うた日記』を書く。 1905年(明治38年・44歳) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。翌年、1月帰国。 1906年(明治39年・45歳) - 6月、山県有朋らとともに歌会「常磐会」を設立。賀古鶴所らとともに幹部に。 1907年(明治40年・46歳) - 3月、与謝野寛、伊藤左千夫、佐佐木信綱らと「観潮楼歌会」を開く。6月、西園寺公望が主催した歌会「雨声会」に出席。8月、次男不律誕生。10月、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長になる。 1908年(明治41年・47歳) - 1月、弟篤次死去。2月、次男不律死去。5月、文部省の臨時仮名遣調査委員会委員になる。 1909年(明治42年・48歳) - 3月、「スバル」に、口語体小説「半日」を寄稿。以後、頻繁に寄稿する。5月、次女杏奴誕生。7月、文学博士の学位を得る。『ヰタ・セクスアリス』が発売禁止となる。 1910年(毎時43年・49歳) - 2月、慶應義塾大学の文学科顧問となる。 1911年(明治44年・50歳) - 2月、三男類誕生。5月、文芸委員会委員になる。9月、「雁」を「スバル」に連載。 1912年(明治45年・51歳) - 1月、文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。10月、鴎外にとって、初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を「中央公論」に発表。 1913年(大正2年・52歳) - 1月、「阿部一族」を「中央公論」に発表。 1914年(大正3年・53歳) - 1月、「大塩平八郎」を「中央公論」に発表。2月、「堺事件」を「新小説」に発表。 永明寺の墓1915年(大正4年・54歳) - 1月、「山椒大夫」を「中央公論」に、「歴史其儘と歴史離れ」を「心の花」に発表。11月、大嶋次官に辞意を表明。同年、渋江抽斎の研究を始める。 1916年(大正5年・55歳) - 1月、「高瀬舟」を「中央公論」に、「寒山拾得」を「新小説」に発表。「渋江抽斎」を「日日新聞」に連載。3月、母峰子死去。 高速バス 格安 1917年(大正6年・56歳) - 12月、帝室博物館総長に就任。高等官一等に叙せられる。 1918年(大正7年・57歳) - 11月、正倉院宝庫開封に立ち会うため奈良に一時滞在。以後1921年まで毎秋、奈良を訪れた。 高速バス 大阪 1919年(大正8年・58歳) - 9月、帝国美術院の初代院長に就任。 1920年(大正9年・59歳) - 1月、腎臓を病む。 1921年(大正10年・60歳) - 6月、臨時国語調査会長に就任。秋、足に浮腫が出来はじめるなど、腎臓病の兆候が見られ始める。 高速バス 京都 1922年(大正11年・61歳) - 4月、イギリス皇太子の正倉院参観に合わせ、奈良へ5度目の旅行。途中、いくどか病臥する。6月29日、萎縮腎と診断される。 高速バス 神戸 また、肺結核の兆候も見られた。7月6日、友人の賀古鶴所に遺言の代筆を頼む。7月9日、午前7時死去。向島弘福寺に埋葬される。 1927年(昭和2年) - 墓が三鷹市禅林寺に移される。分骨され津和野町永明寺にも墓がある。 [編集] 主な作品 [編集] 小説 高速バス 東京 舞姫(1890年1月、「国民之友」) うたかたの記(1890年8月、「国民之友」) 文づかひ(1891年1月、吉岡書店) 半日(1909年3月、「スバル」) 魔睡(1909年6月、「スバル」) ヰタ・セクスアリス(1909年7月、「スバル」) 鶏(1909年8月、「スバル」) 金貨(1909年9月、「スバル」) 杯(1910年1月、「中央公論」) 高速バス 関西 青年(1910年3月 - 11年8月、「スバル」) 普請中(1910年6月、「三田文学」) 花子(1910年7月、「三田文学」) あそび(1910年8月、「三田文学」) 食堂(1910年12月、「三田文学」) 蛇(1911年1月、「中央公論」) 妄想(1911年4月、「三田文学」) 夜行バス 格安 雁(1911年9月 - 1913年5月、「スバル」) 灰燼(1911年10月 - 1912年12月、「三田文学」) 百物語(1911年10月、「中央公論」) かのように(1912年1月、「中央公論」) 興津弥五右衛門の遺書(1912年10月、「中央公論」) 阿部一族(1913年1月、「中央公論」) 大塩平八郎(1914年1月、「中央公論」) 堺事件(1914年2月、「新小説」) 安井夫人(1914年4月、「太陽」) 山椒大夫(1915年11月、「中央公論」) じいさんばあさん(1915年9月、「新小説」) 高瀬舟(1916年1月、「中央公論」) 寒山拾得(1916年1月、「新小説」) 夜行バス 大阪 [編集] 戯曲 生田川 [編集] 翻訳 カルデロン・デ・ラ・バルカ『調高矣津弦一曲』(1889年)※三木竹二との共訳 『於母影』(1889年、新声社訳、「国民之友」夏期付録) ハンス・クリスチャン・アンデルセン『即興詩人』(1892年11月 - 「しからみ草紙」、のち「めさまし草」で1901年2月完) 夜行バス 京都 ゲーテ『ファウスト』(第一部:1913年1月、第二部:3月、冨山房) 『サロメ』 オスカー・ワイルド [編集] 史伝 渋江抽斎(1916年1月 - 5月、「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」) 夜行バス 神戸 [編集] 家族 親族 妻子 先妻 登志子(海軍中将赤松則良娘) 長男 於菟(おっと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任) 後妻 - 志け 夜行バス 東京 小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌「青鞜」の賛助員になっている。 長女 森茉莉(まり、随筆家・小説家) 次女 小堀杏奴(あんぬ、随筆家) 次男 不律(ふりっつ、夭折) 夜行バス 関西 三男 類(るい、随筆家) 4人の子供はいずれも鴎外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。