船橋市 矯正の性能
国際金融力学の脆さは、今日サブプライム問題で右往左往する大西洋金融構造にも受け継がれているように見える。
銀行破綻をめぐる対応現代の感覚では、ある国で金融システム不安が起きると、流動性対策としてその中央銀行(中銀)が資金を放出して支援することは当たり前のように思われているが、中銀はそもそも金融危機対応のために設立されたものではない。
英国を中心とする欧米金融システムにおいて、廻世紀は金融機関の破綻が相次いだ世紀でもあり、蕊明期の国際金融体制が揺らいだ時期でもあった。
各国の中銀は、その対応に追われることになるが、金融機関を助けるべきかどうかの判断に最初に鋭いメスを入れたのは、四世紀末に発刊されたウォルター・バジョットによる『ロンバード街』である。
それまでは中銀による金融救済意識は定着していなかった。
バジョットは、金融システム危機の際に中央銀行が積極的に流動性を供与することは正興味深いことに、4世紀にはすでに中銀自身が他国から救済を受けるというケースも発生していた。
E 銀行は1694年の設立直後にオランダから何度も救済融資を受けているし、1763年には反対に E 銀行がオランダを救済している。
当時英蘭両国は経済的に相互依存の状態にあったため、一方の危機が他方の危機につながりかねない、という考えを共有していたことがわかる。
また1836年の流動性危機の際には E 銀行は F 銀行から融資を受け、逆に1846年には F 銀行が E 銀行から融資を受けるという、持ちつ持たれつの関係ができ上がっていた。
別世紀初頭、米国からの金要求を受けたE 銀行に対して金を現送したのも F 銀行であった。
各国中銀は、相互に危機管理体制との認識を与えつつも、その資金供給には2つの条件が必要だと説いた。
ひとつは、それが「非常に高い利率を以ってなされるべきこと」である。
そして、その利率ならばその供給は「優良なる銀行担保品に対しては選ぶところなくまた公衆の請求する限り」いくらでも行うべきだ、という主張である。
この「懲罰的金利」と「優良担保の原則」は、皿世紀の現在まで中央銀行が最後の貸し手として機能する際の基本原理となってただし、どんな銀行破綻に対しても中銀がこれを救済するという方程式ができ上がったわけではなかった。
米国では1933年に預金保険制度ができ上がり、銀行が破綻しても最低限度の預金が連邦政府によって保証されるという預金者保護制度ができ上がる。
このような制度を築く必要性を肌で感じ取っていたのである。
そのなかで、中銀が国をまたぐ民間銀行の破綻への対応に迫られたのが、大恐慌の波が広がり始めた1931年に発生したオーストリアの K 銀銀行の経営破綻である。
救済余力のない同国政府は、国際連盟に救済を求め、結果としてはバーゼルに設立されていた国際決済銀行(BIS)が援助を行ったが、これでは足りずに E 銀行も救済融資に出動することになった。
この銀行破綻は隣国のドイツにも波及、その救済には E 銀行やBISの他に、F 銀行や N 連銀も名前を連ねる国際協調型支援となった。
そしてその銀行危機が英国にも及ぶと、N 連銀と F 銀行は E 銀行に貸出を行っている。
「大きすぎて潰せない」は本当か?実際に、1970年代に通貨投機で経営危機に陥ったドイツの H銀行や、米国の FN銀行は救済されることなく閉鎖されている。
1980年代の米国における貯蓄機関(S&L)危機の際にはその多くが次々に経営破綻していった。
一方、大きすぎて潰せないという表現も目立つようになった。
1984年に破たんした米国の CI銀行が救済されているのはその一例である。
存在感の大きな金融機関の破綻は金融市場に止まらず社会的な影響も大きく、また預金保険の構造をも揺るがしかねないという判断である。
だが前述のバジョットは、資金を供給する相手を「一時的な流動性危機に陥った、破綻していない金融機関」に限定している。
つまり、明らかに「死に体」になっている金融機関を救済するために資金を供給することは想定していなかったのである。
さらに、2008年3月のJ・P・M・CによるB・Sの救済の背後には、明らかに連鎖倒産を危倶したFRBの警戒感が反映されていた。
それは、現代の金融が「複雑化してもつれた糸がほどけなくなった」という新たなリスクに直面していることを示すものとなっている。
戦後の国際金融システムは、米国が主導したといってまず間違いないと思われるが、その過程は決して平穏であったわけではなく、ポンドに代わって基軸通貨の座についたドルも度々危機に見舞われ、金融面のインフラは幾度となくその脆弱さを露呈していた。
先進国は石油危機などの外部要因にも揺さぶられながらも、信用紙幣の拡張や財政の出動、また金融市場機能の強化などを通じて、安定成長とインフレ抑制への達成のための国際協調路線を築いていったのである。
だが、1980年代初頭にその先進国に追いつこうとする発展途上国経済において、重大な危機が発生する。
先進国政府やその銀行団から借り入れた巨額の資金返済に目処がつかず、財政破綻したのである。
これは、1973年、1978年の石油危機において原油価格急騰で急増したオイルマネーの還流策として、欧米銀行が途上国に貸し出した融資がデフォルトする、という現象でもあった。
石油危機で先進国は景気後退に見舞われたため、オイルマネーは大手銀行を通じて工業化やインフラ拡充を推進する中南米や東欧、アジアなどへの投資に向けられた。
石油取引はドル建てであり、欧米銀行はそれをドル預金として受け取り、ドル建ての資金として貸し付けたのである。
米国がインフレ対策として利上げを行えば、借入れ国の金利負担も増加する。
1979年以降のBFRB議長による引き締め政策の強化によって、まず1982年にメキシコが金利負担に耐えられなくなった。
その後、ブラジルやアルゼンチン、ベネズエラなども元利返済不能に陥ることになり、アジアではフィリピンが、欧州ではルーマニアやユーゴスラビアなどが、アフリカではエジプトやナイジェリアなどが次々と同じような危機に直面することになる。
政府や民間銀行は貸出金の条件を再調整(リスケジュール)し、さらにIMFも加わって新規融資を行うという協調的な救済策が講じられることになった。
だが、各国の累積債務問題は予想以上に深刻であり、こうした処方菱では解決できないことが次第に明らかになっていく。
たんなる流動性危機ではなかったからである。
1985年に当時のB財務長官が提唱した新規与信による成長拡大策も効果なく、債務国はさらに混迷の度合いを増していったのである。
それにようやく歯止めをかけたのは、1989年の「B提案」であった。
前B政権の下で財務長官に就任したBは、リスケジュール効果の限界を認め、民間の債務削減が必要であることを表明した。
銀行への借金の棒引き要請である。
米国はまずメキシコに対してこのスキームを適用し、その後フィリピンやコスタリカ、ベネズエラ、ウルグアイなどにも同様の支援がなされることになった。
結局、累積債務問題は貸し手の大幅な償却なしには解決しえなかったのである。
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